隣町の公園へ、久しぶりにムスメちゃん(3歳10カ月)を連れて★
ここは彼女が1歳半くらいからちょこちょこ来ていて、広くて芝もあるし遊具も充実してる、お気に入りの場所。(私が)
で、この網の斜面。
彼女の日常の様子や運動レベルを考慮しても、かなーーり前からクリア出来るはずのもの。
なのに以前は声掛けしてみても怖がって、絶対に途中までしかやらなかった。
そんなこの斜面。
今日も全くやる様子がなく、「そっかーまだかぁー?」と思ってた。
一通り遊び終わったかな?と思った頃。
テテテーって走って行って自ら斜面を登り始め、ひと足ひと足慎重ながらもどんどん登って、ついには1人でてっぺんまで登り切った!!
「おぉー! できたねYちゃん!」
ここまで長かった、でもいつかは出来るって信じてきてよかった、自分からやるから今まで無理強いはしないでよかったと 母、感無量。
その後ははしご状になってる高いところや、1番上の青い網のトンネルなど次々制覇。
『ひとつの達成感とその自信は次の扉を開けるなぁ』って改めてつくづく実感していた、そのとき。
「おりるときも!(あの網の斜面から降りる)」って言い出すムスメちゃん。
登りはいいけど下りまではまだ想定していなくて、上から見下ろすと結構な角度だから母的にもちょっと不安で、万が一にでも足を滑らせてゴロゴローって下まで転がってっちゃったらどうしよう… とか思った。
でも彼女がやるっていうんだし、やってもらうと決めた。
落ちても近くにいれば助けられるだろうから、まず私が先に降りて常に近くに居る、って感じで。。
ところがそんな心配は無用、またもや慎重ながらもずんずん降りていくムスメちゃん。
結局私の手出し口出しは全くなく、1人で降り切った。
「もっかい! こんどはおかあうえでまってて! Yちゃんさきにおりるから!」って(・_・;
大丈夫かー? んー、まぁ大丈夫だよね。さっき慎重にやってて危なっかしいところは全く無かったもん。
「わかった、待ってる」意を決したおかあ。
案の定、危なげなくクリア、「おりてきていーよー?」ってうれしそう(*^^*)
うん、信じて見守ってよかった。
…だけど、今日の公園で、引っかかったこともある。
それは、周りの子と親の関わり。
ムスメちゃんよりも明らかに年上の、しかも男の子に付き添ってる親たち(4組くらい全部お父さん)がそれはまぁ、手出し口出しで…(・_・;
「ほら、右足はこっちおいて。次は左手。大丈夫か? よく見て! よーしよく出来たな!!」
「怖くないよ。やってごらん?」(やだーとギャン泣きするお子さん)
「えーっ これをやるの? 危ないよ、どうやって降りるんだよ。まだやめておいた方がいい」
etc…
(↑誇張でなく、本当に聞こえてきた言葉たち)
我が耳を疑った。
サポートを受けて達成する子も
意に反して挑戦させられる子も
興味も意欲もあるのに制止される子も
【自分自身の体験】を妨げられている。
親が1番望むはずの「こどもの成長」を、親が、邪魔してしまっている。
良かれと思って。わが子のためにと思って。。
手厚いサポートを受けて達成した子は、次1人で「自分で考えて」出来るだろうか? 「達成するコツ」を自分の頭と体で理解しているだろうか。
強制されて挑戦して、喜びはあるんだろうか。こどもは自分自身のことをよくわかっているものだから「今じゃない」と判断しているかもしれないのに。それでもし“失敗”したら、より消極的になってしまわないだろうか。
成功体験も失敗も、なにも経験することなく過ぎてしまって良いのだろうか。せっかく「やる気」があるというのに。。
今までも何度も書いてきているけど、私自身が「過干渉を受けるデメリット」を人生でたくさん痛感して来ているから、聞いていてすごく悲しくなった。
そして「私がこどもだった頃から30年以上経つのにまだ親達はこんなことをやってる」「祖母と私だったから、女の子だからの過干渉でもないのか…」と愕然とした。
きっと、年始早々こんな経験をしたのも、「じゃあどうする」という機会を与えられたからなんだろうな。考えなさい、行動しなさいって。
うん、しよう。2019年はもっと前に進もう。
私のしたいことを、私に出来ることを、カタチにしていこう。
そう思うのでした。
こそだて喫茶cotoca 改田友子